みなさん「多事総論」って言葉をご存知でしょうか?

俺は「あれ何だっけ?」と今朝気になって調べました。

1万円札の福沢諭吉さんが
「違う意見を持つ者が議論する事がなにより大切である」ということを
おっしゃって、
諭吉さんがこの言葉で言いたかったことは何か?

一つの社会やコミュニティーに一つの論が圧倒的な力を占めると、
たとえその論が全く正しいものであっても失われるものが一つあると。

その大事なものは何かというと

「自由の気風」であると。
「自由の気風」を保つためには、
多くの人たちがいろんな議論をし合うことが大事だと、そういうことを言ったそうです。


諭吉さんですよ。お札になってる。

でも、なんか予言してないか?

日本の社会も、会社の組織も。

今は「自由の気風」がありすぎるようで

ものすごく狭い自由じゃないのかと思うんです。


多事総論。


じゃあ、いろいろな人と語らう。

「君の意見はとてもいい!でも俺はね」

とか言われると「いい!」と認められたとたん

「おめえのいいに俺を無理やり、

  せばめんじゃねえ!

 いいにあてはめんなよ!」と結果、思うことがあるのです。

かえって思いきり否定されたほうが気持ちいいこともある。

俺はひねくれてますかね?


真夜中・・

ネットの記事と

心の中で議論してみようとする。


ネットでは誰かが食べたごはんの記事。


俺、豚の背油きらい!と

読むのやめた。


それはそれは楽しそうなライブの写真。


よかったな!

2日前に終わってたのか・・!と読むのやめた。


ギターの記事。

内容が細かすぎて

読むのやめた。


車の記事。


知らねえよ、人の車の車種とか塗装とかエンジンとか

興味なし!!


ペットの記事。


選挙の記事エキセトラ・・



最近インターネットを見ているときの感情は

「傍観者」に近いのではないかと思った。


心の中で議論しても

なんのアクション、反応もないのは当然。


新しいニュースには

ぐっと感情を寄せるが一度読んで数日たつと

すっかり過去のことのように思えてしまう。

「あ、それ読んだよ」と目線が高くなって

新聞のようにいまどうなってるのかを追う気持ちすら

なくなってしまっている。ネットはどこかいつでも読めるし

古い情報をまた読みたいと思った時に記事が消えていても

「ネットだし、しょうがないよなぁ」となったりすることもある。

BlogPaint


目の前にいやがおうにも飛び込んでくるニュースはさておき

すくなくともここのブログはクリックとか

なんらかアクションを起こさないと読めないわけだから

1度は「読もう」というアナログのアクションがあるわけだ。


なのでネットだから「しょせん流れてしまうもの」と思わないで

書いてもいいんじゃないか、

そんな感謝の気持ちがたまに

本当にたまに、湧いたりすることもある。

大げさに言えば、

「生きてるなあ、今日も!」と書いた後で思うこともあるのだ。


勝手にすっきりしてね。


ネットでは誰かが食べたごはんの記事とか、

それはそれは楽しそうなライブの写真とか、

ギターや車やペットや最近の政治や選挙や、

本当にさまざまな記事や個人の思いがいっぱい書いてある。

でも、俺の好きな記事は

なんか本気だったり、あくびがでそうな記事の氾濫に

反乱を起こしているかのような、

「あのさ、俺はここにいるんだけどさ」っていう

主張がものすごい記事は

読んでてぞくっとする。そういう記事を読んでるときは

俺は冒頭で書いたような「傍観者」

のような感情では、完全になくなったりしている。


ああ、すっきりした。


ネットなんか、くそだ。

完全なものなんかでは、ないのだ。


しかし、

なんか昔、駅にあった掲示板に

「15時まで待ったけど、もう帰るわ。あばよ」

と誰かが書いてて

くすっと笑ったような感情のように

誰かがこのブログを読んで

なんか思えば

それだけでありがたいし、

ここに書いた記事もはじめて

「見てくれたね?ありがとう!」と

壁画のように、ここで役目を果たすことになるのだろう。



なんで、ブログは

アナログな気持ちで書いていきます。

それで最大に

アナログになれるライブも、がんばっていきます。


またいつか。

それまで楽曲あたためていこうと思います。

次は

レコーディングの時のエピソードでも書こうと思います。


                      ラリーアッサラーム